「財布を盗られた」「あなたが私の通帳を持って行った」――認知症の親から繰り返しそう言われる家族の苦しさは、現場で何度も目にしてきました。一番介護を頑張っている人が真っ先に疑われ、否定すれば反論され、説明すれば敵視される。「もう何もしてあげたくない」と心が折れる瞬間を、多くの家族が経験します。
けれど物盗られ妄想・嫉妬妄想は、本人の本心ではありません。これは認知症の周辺症状「BPSD(行動・心理症状)」の代表例で、脳の病変と本人の不安・喪失感が組み合わさって起きる症状です。対応には明確な原則があり、知っているか知らないかで家族の負担も本人の症状も大きく変わります。
本記事では、介護福祉士として認知症の方と数多く関わってきた現場の知見をふまえ、2026年4月時点の知見に基づいて物盗られ妄想・嫉妬妄想の正しい理解と家族の関わり方を整理します。BPSDが激しい場合は主治医・認知症外来・地域包括支援センターに相談してください。
物盗られ妄想・嫉妬妄想とは|BPSDの中の位置づけ
BPSDの全体像
認知症の症状は「中核症状」と「BPSD(周辺症状)」に分けられます。
| 区分 | 内容 |
|---|---|
| 中核症状 | 記憶障害・見当識障害・実行機能障害・判断力低下など脳の障害そのもの |
| BPSD | 妄想・幻覚・抑うつ・興奮・暴言・暴力・徘徊・不眠など、二次的に生じる行動・心理症状 |
物盗られ妄想・嫉妬妄想はBPSDの「妄想」に分類されます。BPSDは中核症状と違い、環境・関わり・心理状態によって変化するのが特徴。つまり家族の対応次第で症状が増減します。
物盗られ妄想とは
「自分の物(財布・通帳・大切な品物・時には食べ物)が誰かに盗まれた」という確信を持つ症状です。次のような訴えとして現れます。
- 「財布がない、誰かが盗った」
- 「通帳をお前が持って行ったんだろ」
- 「冷蔵庫のものが減ってる、ヘルパーが盗んだ」
- 「指輪を盗られた」
- 「年金がなくなった」
嫉妬妄想とは
配偶者や近しい人が浮気している、自分以外の誰かに気持ちが向いていると確信する症状です。レビー小体型認知症やアルツハイマー型認知症で現れやすく、配偶者を激しく責める形になります。
- 「お前は他の女と会っているだろう」
- 「あの介護士と仲がよすぎる」
- 「私が寝ている間に誰かが来ている」
- 「お父さんが浮気している」
「妄想」は本人にとって「事実」
家族が知っておくべき最重要ポイントは、本人の中ではこれが「事実体験」になっているということ。記憶障害で財布をどこに置いたか忘れる→「いつもの場所にない」→「誰かが盗ったに違いない」と論理が繋がるため、本人にとっては紛れもない真実です。

なぜ起きるのか|本人の心の中で何が起きているか
記憶障害+不安+プライドの組み合わせ
物盗られ妄想は、複数の要因が組み合わさって生まれます。
- 記憶障害:自分でしまった場所を忘れる
- 判断力低下:「自分の置き忘れ」より「誰かのせい」に飛びつきやすい
- 不安・喪失感:「自分が分からなくなっていく」恐怖感
- プライドの防衛:「自分が忘れた」と認めたくない無意識の心理
- 身近な人への複雑な感情:頼る・甘える気持ちと「世話になっている屈辱感」の混在
これらが組み合わさって、「自分が悪いのではなく、誰かが悪いのだ」という結論を導き出すのが物盗られ妄想の構造です。本人を責める対象ではなく、症状として捉える視点が出発点。
嫉妬妄想は孤独・喪失感の表れ
嫉妬妄想は、本人が「自分の存在価値が薄れている」「配偶者が自分を見ていない」と感じる中で生まれることが多いです。脳の病変に加え、本人の孤独感が強く反映されています。
身体・服薬・環境の引き金
BPSDの妄想は、次のような要因で増悪します。家族が見落としやすい論点なのでチェックしてください。
- 脱水:水分不足で意識レベルが低下しBPSDが増悪
- 便秘・尿閉:身体不快感が興奮・妄想を引き起こす
- 感染症(尿路感染・肺炎等):せん妄状態が妄想を悪化
- 新しい薬の開始・薬の変更:副作用・相互作用でBPSDが出る
- 環境の変化:引っ越し・家族の入れ替わり・施設入所
- 過剰な刺激:人の出入りが多い・テレビが大音量
- 過少な刺激:日中の活動がなく寝てばかり
⚠️ BPSDが急に強くなったときは身体疾患を疑う
これまで穏やかだった方が急に強い妄想・興奮を示し始めた場合、身体疾患の可能性が高いです。尿路感染症・肺炎・脱水・便秘・薬の影響などをまず疑い、主治医に相談してください。「認知症が進んだだけ」と決めつけず、医療の視点を入れることで改善できる場面が多くあります。
否定・反論がNGな理由
否定で症状はさらに悪化する
「盗ってないよ」「私はそんなことしてない」と否定すると、本人の中では次のように展開します。
- 「やっぱりこの人だ。違うと言うのは犯人だからだ」
- 「私の話を信じてくれない」
- 「だれも分かってくれない」
- 不安・怒り・興奮が増幅
- 暴言・暴力に発展する場合も
否定は本人の不安をぶつける相手を「特定した」形になり、症状を強化してしまいます。
説明・説得もうまくいかない
「あなたが昨日、引き出しに入れてたじゃない」「ボケてるからそう思うんだよ」と説明・説得を試みても、本人には届きません。記憶障害があるため「昨日のこと」が事実として共有できないからです。むしろ「説教された」「馬鹿にされた」という感覚だけが残り、関係性を悪化させます。
「やってない証拠」を見せる対応も逆効果
「今、私の部屋を見せるから盗んでないことを証明する」「カメラの映像を見せる」――これも基本的には機能しません。本人の妄想は論理ではなく感情で起きているため、証拠を見せても受け入れる土台がないのです。
家族がとるべき対応の原則
まず受け止める|「それは大変だね」
本人が訴えてきたら、まず受け止める言葉を返します。
- 「それは大変、なくなったの?」
- 「困ったね、一緒に探そう」
- 「大事なものだよね、どこかにあるはず」
これは「妄想を肯定する」のではなく、本人の不安を受け止めているということ。家族にとって最初は違和感がありますが、本人の感情を否定しないことが対応の出発点です。
一緒に探す|身体で動く
本人と一緒に部屋を探します。動くこと自体が妄想から本人の意識をそらす効果も持ちます。多くの場合、本人がしまい込んだ場所から見つかります。
見つけ方の小ワザ|本人を立てる
家族が先に見つけても、すぐ「ほら、あったよ」と渡すのは避けます。本人のプライドを傷つけ、再度「あなたが置き直したんでしょう」と疑われる導線になりかねません。代わりに:
- 本人がいる場所からそれとなく見えるようにする
- 「もしかしてここかな?」と本人の手元に近づけて気づいてもらう
- 本人が見つけたら「よかった! ここに置いてくれてたんだね」と本人を立てる
探す前にいったん気をそらす
探しても見つからないとき、または本人がますます興奮するときは、いったん別のことに気をそらします。
- 「お茶でも飲んで、ちょっと休んでから探そうか」
- 「外に少し出て気分転換しよう」
- 「写真整理を手伝ってほしいんだけど」
認知症の方は感情は残るが事実は流れやすいため、時間をおくと別の話題に移れることが多くあります。
「ありがとう」「助かる」を増やす
普段から本人に感謝・尊重の言葉を多く伝えることで、「自分は役に立っていない」感覚が和らぎ、妄想の発生頻度が下がる場合があります。
環境調整|妄想を減らす生活設計
大事なものの置き場所を固定する
- 財布・通帳の置き場所は毎日同じ場所に固定
- 透明ケース・蓋のない箱で「見える化」
- 本人と一緒に「ここに置く」と確認する習慣
- 家族が勝手に動かさない
「予備」を用意しておく
財布や通帳を頻繁に「盗られた」と訴える方には、本物そっくりの予備を用意する手があります。
- 古い財布に少額の現金とポイントカードを入れておく
- 「盗られた」と訴えたら一緒に探し、予備を見つけてもらう
- 本物の通帳・印鑑・大金は家族が別に保管
これは「騙している」のではなく本人の安心を守る工夫です。介護現場でも一般的に使われる方法。
金銭管理は本人と分けて運用
多額の現金や通帳を本人が持っていると、紛失・詐欺・物盗られ妄想のリスクが高まります。次の選択肢で家族が部分的に管理を引き継ぎます。
- 家族による日常的な金銭管理(同意のもと)
- 社協の日常生活自立支援事業(軽度の認知症に対応)
- 成年後見制度(重度・財産規模が大きい場合)

身近な刺激を整える
- テレビの音量・点けっぱなしの見直し
- 家の中の動線を整理(つまずき・混乱の原因を減らす)
- 日中の活動量を確保(デイサービス等)
- 夜間は照明で安心感を作る
嫉妬妄想への対応
否定より「あなただけだよ」
嫉妬妄想は配偶者や主介護者を疑う形で出るため、「そんなことない」と否定するより愛情を伝える方が落ち着きます。
- 「私が好きなのはあなただけだよ」
- 「ずっと一緒にいたから安心して」
- 本人の手を握る・肩に触れるなど身体的な安心感を提供
距離を取る選択肢も用意する
強い嫉妬妄想で配偶者の精神的負担が限界の場合、レスパイト(ショートステイ)で物理的に距離を取ることも有効です。離れている時間が心身の回復になり、戻ってきた本人にも対応できる余力が生まれます。

主介護者が標的になる構造を知る
「一番頑張っている人が一番疑われる」
物盗られ妄想・嫉妬妄想で真っ先に疑われるのはほぼ主介護者です。これは家族の関係性の問題ではなく、認知症のBPSDに共通する構造です。
| 標的になる理由 | 背景 |
|---|---|
| 接点が多い | 毎日関わるため記憶に残りやすい |
| 金銭管理を代行 | 実際に財布・通帳に触れる |
| 「お世話になっている」屈辱感 | 感謝と惨めさの葛藤が攻撃に転化 |
| 頼り・甘える対象 | もっとも安心できる人だからこそぶつけられる |
遠方の兄弟が時々訪れて「お母さん、しっかりしてるじゃない」と言うのは、滞在時間が短くBPSDが出る前に帰るからです。「私は大変なのに分かってもらえない」と苦しむ主介護者の声を、現場でも数えきれないほど聞いてきました。
兄弟の理解を得るコツ
- BPSDの動画・記録を残して見せる(スマホで撮った長時間の様子)
- 主治医・ケアマネに同席してもらい、客観的な評価を共有
- 家族会議で「これは病気の症状」と全員で確認
- 「主介護者が標的になるのは認知症ではよくある」と医療職から伝えてもらう
主介護者を守る|抱え込まない
毎日疑われ、暴言を浴びるのは確実に心が削られます。1人で抱え込まないことが対応の前提です。
- ケアマネに状況を率直に共有
- 地域包括支援センターに相談
- 認知症の人と家族の会の家族会・電話相談
- レスパイト(ショート・デイ)で距離を取る時間を作る
- 必要に応じて主介護者自身も心療内科を受診

医療の出番|薬物療法の位置づけ
第一選択は非薬物療法
BPSDの治療指針では、環境調整・心理的アプローチ(非薬物療法)が第一選択です。家族の対応の工夫、生活環境の調整、デイサービスでの活動増加などが含まれます。
薬を使う場合の判断基準
次のような場合、医師の判断で薬物療法を検討します。
- 本人または家族の安全に関わる強い興奮・暴力
- 強い不安・うつで日常生活に支障が大きい
- 非薬物療法を十分に試したが改善しない
- 身体疾患の影響が除外されている
高齢者の薬には慎重に
抗精神病薬等は過鎮静・転倒・誤嚥・心血管系のリスクがあり、高齢者では特に注意が必要です。「妄想がつらいから薬で抑えてほしい」と即決せず、必ず認知症専門医や精神科医と相談してください。
身体疾患の除外が決定的
繰り返しになりますが、急にBPSDが強くなった場合は身体疾患の可能性を疑います。主治医に「最近急に妄想が強くなった」と伝えるだけで、隠れた感染症や脱水が見つかる場合があります。
介護福祉士から見た|物盗られ妄想と向き合えた家族の事例
介護福祉士 SEDO(経験7年)
物盗られ妄想で疲弊しきっていた娘さんが、ある時点から驚くほど穏やかに対応できるようになった例があります。きっかけは認知症外来で医師から「これは病気の症状で、お母さん本人があなたを嫌いになったわけではない」と明確に言われたことでした。
「分かっているつもりでも、毎日言われると心がもたない」――これが現場で家族から聞く最も多い言葉です。だからこそ、家族の対応として大事なのは次の3点です。
- 医療職から「病気の症状」と明言してもらう:家族の罪悪感・無力感を和らげる
- 1人で抱えず情報共有:兄弟・ケアマネ・家族会・心療内科
- 距離を取る選択肢を持っておく:ショートステイ・デイ増回・施設入所
家族が「もう無理」と感じた時点で、すでに限界を超えていることが多いです。「我慢の限界が来てから動く」のではなく、症状が出始めた時点で備えることが、家族を守る最大のコツになります。
そして忘れないでほしいのは、本人の本心はあなたを愛し、感謝しているということ。妄想は病気の症状であって、本人の人格そのものではありません。
まとめ|「症状」と「本人」を分けて受け止める
物盗られ妄想・嫉妬妄想への対応の要点を整理します。
- BPSDは環境と関わりで変化する症状(中核症状とは別)
- 本人の中ではこれが「事実体験」になっている
- 否定・説明・説得はすべて逆効果
- 原則は受け止める→一緒に探す→気をそらす→本人を立てる
- 環境調整(置き場所固定・予備の用意・金銭管理の分離)が効く
- 主介護者が標的になりやすい構造を家族全員で共有する
- 急な悪化は身体疾患・薬の影響を疑い主治医に相談
- 非薬物療法が第一選択、薬は慎重に
- 家族介護者を守るためのレスパイト・相談先を確保
物盗られ妄想は、家族にとって最もこたえる症状の1つです。けれども、対応の原則を知り、医療・介護のチームに支えてもらえば、本人も家族も穏やかさを取り戻せます。「症状」と「本人」を分けて受け止める視点が、家族の心を守る最大の武器になります。
▶ 次のステップ
・認知症のタイプ別の症状を理解 → 認知症の4大タイプを徹底比較
・介護うつのサインと予防 → 介護うつのサインと予防
・ショートステイで距離を取る → ショートステイ完全ガイド
・地域包括支援センターに相談 → 地域包括支援センターの使い方
よくある質問
Q:認知症の親に「財布を盗られた」と疑われたとき、どう対応すればいいですか?
A:「盗ってない」と否定するのは逆効果です。本人の中では本当に盗まれたという体験になっているため、否定されると「分かってもらえない」「やっぱりこの人が盗ったのだ」と確信が強まります。まず「それは大変、一緒に探そう」と寄り添い、本人と一緒に探す姿勢を見せてください。多くの場合、本人がしまい込んだ場所から見つかります。見つけたら「ここに置いてくれてたんだね、よかった」と本人を立てる言い方が有効です。頻発する場合は主治医・認知症外来に相談を。
Q:なぜ一番介護している家族が「盗った」と疑われるのですか?
A:もっとも近くで関わる人が標的になるのは、認知症の物盗られ妄想に共通する特徴です。①一緒にいる時間が長く接点が多い、②本人が頼りたい・甘えたい気持ちと「自分の力が衰えた」屈辱感が混在し、その葛藤が最も身近な人に向きやすい、③金銭管理を代行している場合は実際に財布や通帳に触れる機会が多い、などの構造があります。「裏切られた」と感じやすい家族ほど傷つきますが、これは病気の症状であって本人の本心ではありません。1人で抱え込まず、ケアマネ・地域包括・認知症の人と家族の会等に相談してください。
Q:BPSDの妄想は薬で治りますか?
A:妄想や興奮の程度が強い場合、抗精神病薬・抗不安薬等で症状を和らげる治療がありますが、第一選択は環境調整・心理的アプローチ(非薬物療法)です。薬物療法は副作用(過鎮静・転倒・誤嚥・心血管系のリスク)があり、特に高齢者では慎重に用います。家族としてできるのは、まず「否定しない・一緒に探す・環境を整える」の対応を試みつつ、頻度・強度が高まれば認知症専門医に相談すること。BPSDは身体疾患・服薬・脱水などが引き金のことも多く、主治医の総合的な判断が必要です。
📚 出典・参考
・厚生労働省「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン/認知症施策推進大綱)」
・日本神経学会「認知症疾患診療ガイドライン」
・日本老年精神医学会 BPSDの治療指針
・公益社団法人 認知症の人と家族の会
・各市区町村「認知症初期集中支援チーム」関連資料
※認知症の医療判断・薬物療法は主治医・認知症専門医の診断に基づきます。本記事は家族の関わりの一般的な手引きとして整理しています。BPSDが激しい場合は早期に医療機関にご相談ください。



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